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 思えば10代の前半が、一番早く時間が流れていたような気がする。
 いつの間にやら小学校を卒業し、中学校に入学。それからまた時間が過ぎる。あっという間だ。もう次の春が来れば、中学を卒業する。そんな年齢に、自分でも気づかないうちに達していたのだ。

 小学校のころは毎朝、隣の家の若菜と一緒に登校していた。
 しかし中学生になるとそれも何となく恥ずかしく感じるようになった。
 どちらからともなく、お互いの家の前で待って、仲良く並んで登校する、ということはなくなった。かと言って、通う学校が別になったわけではない。同じ通学路を、同じ時間帯に歩くのだ。出会わないという方がおかしい。
 その日も俺は、あくびなどをしながら一人で学校へ向かっていた。そこに、背後から駆け足の足音が聞こえてくる。
「圭く〜ん!」
 ドキン。
 その声に俺の心臓は一回、大きく脈打った。それはその時期にありがちな、思春期ならではの恋心……などではない。胸の高鳴りは、生物が本能的に感じる“恐怖”から来たものだった。
 俺が振り返るよりも前に、すぐ後ろから、その音が響く。

ぶふうぅっ!!!

 俺は逃げようと足を速める。
 が、それよりも早く、肩の後ろから二本の腕が伸びてきて、白く形の良い手のひらが、顔を覆い尽くした。
うッ!!うぐううぅううッッ!!!!
 その瞬間、俺の頭の中で何かが弾けた。
 閃光のようなものが、瞼の裏側でピカピカと光る。
 鼻の粘膜を突き刺すような硫黄臭。
 朝のさわやかさは縦横無尽に全て吹き飛ばされ、体中が怠さに支配される。新しい一日への気力など根こそぎ奪われてしまうような臭い。直接嗅がされなくとも一瞬意識が飛ぶほどなのだ。そのパワーは、小学生のときから比べても格段に進化している。
 そう、俺の朝はいつもこんな調子で始まる。若菜の握りっ屁によって。
「おっはよ♪」
 振り返ると、若菜はニコニコと笑いながら制服のスカートをぽんぽんと叩き、尻の残り香をほろっているところだった。
グゲェ、ゲホッ!! ……わ、若菜…お前なぁ……」
 俺は彼女に白い目線を送る。家のなかでやるならまだしも、こんな外で何をやっているんだ、というメッセージを込めて。
「大丈夫だよ〜、ここは朝でもあんまり人が通らない道だし。でも圭くんがあんまり五月蠅く喚くと、他の人に聞こえちゃうかもね」
 どうやら俺のメッセージは上手く伝わっていたらしい。若菜の趣味は“俺におならを嗅がせること”。俺の知っている限りでは、学校での若菜はごく普通の可愛い女の子として振る舞っている。こんな下品な趣向の持ち主だとは想像もできないくらい自然に。
 だから周囲の皆は若菜の異常放屁体質のことなど知らない。逆に言えば、俺と若菜だけがその秘密を共有している。……知って嬉しい秘密であるとは、お世辞にも言えないが。
「エヘ、どうだったかな〜? 今日という素晴らしい一日の始まりを告げる、若菜の一発は?」
「……最高の気分だぜ」
 俺は露骨に嫌な表情を浮かべ、そう答える。いまだに臭いは鼻に残っている。学校に到着するまでに落ちればいいのだが。
 若菜の方は、俺の渾身の皮肉を受けてもケロッとしている。彼女も慣れたものだ。もう10年近く幼馴染みをやっていれば当然こんなものである。
「それはよかった〜っ、もう一発いっとく?」
「じょ、冗談じゃねぇ! こんな地獄みたいな臭い、朝から何発も嗅いでられるか!」
「そう? 私としては挨拶代わりのほんの軽い一発だったんだけどな。それに直接じゃなくて握りっ屁だったし。こんなの全然たいしたことない臭いでしょ〜?」
 確かに“いつもの”に比べればだいぶマシなものではあったが、それはあくまで比較の問題。ごくごく一般的な人間が放つそれと比べれば、その差は歴然なはずだった。おそらく中学に上がってからの若菜にとっての「それほど臭くないおなら」は、一般人にとっての「かなり臭いおなら」の数段上を行くものになってしまった。
「アホ言うなよ……」
「アホじゃないよ〜っ。今日の朝に私がベッドの中で出した『お目覚めのプゥ』に比べたら、今のなんて“良い匂い”レベルだったよ? エヘヘ、今朝のは我ながら凄かったな〜。ここ最近で一番ヤバかったかも。ん〜、圭くんにも嗅がせてあげたかった!布団の中に閉じ込めて。思いっきり嗅がせてあげたら楽しかったのに〜!」
「か、勘弁してくれよ、失神しちまう」
「だね〜、あれは嗅いだら間違いなく2秒で気絶モノだったよ?」
「………」
 俺はついに押し黙らせられた。この頃にはもう、若菜のおなら遊びはほとんど365日休み無く行われている状況。そしてその中で俺が気絶させられることも、そう珍しいことではなくなっていた。
「エヘヘ、もう圭くん、朝から何そんな浮かない顔してるの〜? ほら、学校行こ!遅刻しちゃうよ?」
 俺を急かすように、若菜は走り出す。
「……しょうがねぇな」
 そして俺も、日々進化する若菜の腸への恐れをとりあえずしまい込み、その後を追った。
 学校に行ってしまえば、ひとまず安全地帯なのだ。何故なら若菜も学校では普通に振る舞っている。学校に入れば、おなら遊びは一時休憩となる。今や俺にとって「安全」な場所は、学校しかなくなっていた。

 その日の授業の無事終わり、放課後の部活動時間もあっという間に過ぎ去った。
 俺は中学校では男子バスケットボール部に所属していた。そして若菜も、俺に呼応したのかどうか分からないが、女子バスケットボール部に入部した。
 昔から運動が好きだった俺は、部活動に他の誰よりものめり込んだ。いつも遅くまで残って自主練をしていたし、大会でもチームはそれなりに良い成績を残せていた。
 若菜も運動神経は良かったため、3年生のころには女子バスケ部の中心選手になっていた。女子の方は部活一筋という人間はあまりおらず、あくまで「放課後の活動」として部活に取り組んでいたため、あまり強いチームとは言えなかったが、それでも部員同士の仲は良く、和気藹々とした雰囲気の良い部活のようだった。
 今日の俺は他の皆が帰ってからも練習をし、すっかり暗くなったころに片付けをしていた。
 使った用具は体育館倉庫に戻す。一部の備品は外に出たところにある屋外倉庫にしまわなければならない。
 俺は体育館に鍵を掛けると、最後の片付けをするために屋外倉庫に向かった。
 と、そのとき、
「圭くん!一緒に帰ろ!」
と、後ろから声がした。
 振り返ると、そこには学校指定のジャージを着た若菜が微笑みながら手を振っている。
 俺が自主練で遅くまで学校に残るようになった頃から、若菜も夜まで練習を続けるようになり、結果、俺と若菜は帰り道を共にすることが多くなった。彼女からしてみれば、俺と一緒に下校したかったのだろう。そのために自分の練習時間を増やすとは、本当に恐れ入ることだ。
「ああ、これ片付けたらな」
「じゃあ私も手伝うね!」
 こうして俺と若菜は二人で屋外倉庫に向かう。
 俺はこの日までは――学校だけは、安全な場所だと思っていた。

「これはここにしまえばいいの?」
「ああ、その箱に入れといてくれ」
 ひととおりの片付けを終え、俺は倉庫の鍵と鞄を持つ。
「じゃ、若菜、そろそろ――」
「待って、圭くん」
 いざ帰宅しよう。そこで制止がかかる。
「どうした?」
「……あのね、凄くしたくなっちゃったの………」
 夜の体育倉庫。
 同級生と二人きり。
 そんな状況で「したくなっちゃった」と言われれば、普通のエロ本であれば展開は決まる。
 当時中学生だった俺も、そのような本を読んでいなかったわけではない。
 だが、俺と若菜の関係は、“普通”とはまるで違った。
「……おなら♪」
 若菜が可愛く言ったのを聞いて、俺は唇を噛む。
「おい、ここは学校だぞ? 誰かに見つかってもいいのか?」
見つかるのはダメだよ。私のおならを嗅ぐのは圭くんだけだもん。基本的には
「基本的? 基本的には、ってどういうことだよ?」
 俺は若菜に尋ねる。
 が、若菜は
「エヘ、なんでもないよ〜」
としらを切るだけだった。俺にはまるで想像もできない。
「でもでも、私達以外誰も居ないし、こんな夜だったらみんな家に帰っちゃってるよ。ここは先生達の見回りもないし」
「でもなぁ……」
 あくまで食い下がる俺に、若菜は態度を少し変えた。ツンとして顔を背けると、
「別にいいよ〜、圭くんが嫌がっても。無理矢理嗅がせるだけだもん。私、我慢できそうにないもん」
と言って、小悪魔的な笑みを浮かべ、俺に流し目を送る。
 “無理矢理嗅がせる”。
 若菜が言うその言葉の意味を、俺は嫌というほど知っていた。

 若菜のおならは、臭い。尋常ではなく臭い。あれを自ら好んで嗅ぎたいという者は、世界中のどこを探しても発見できるとは思えない。
 だから俺も当然、昔は若菜が「おなら出そう」と言ってもそれを嗅ぐのを断固として拒否したし、全力で抵抗した。
 しかし、そうなった状況での俺と若菜の力の差は、プロボクサーと幼稚園児くらい懸け離れていた。なにしろ若菜の攻撃手段であるガスは気体。俺がいくら逃げ回っても、同じ部屋でそれをされれば否が応でも臭いは鼻に入り込む。
 さらに中学校に入ってから、若菜は自身が『地獄の握りっ屁』と名付けた技を習得した。文字通り「地獄の」おならを手に握り込み、嗅がせることによって相手の意識を短時間だけ飛ばすというもの。これがあれば若菜はクロロホルムなしで俺を簡単に気絶させることが出来る。握りっ屁ですら、若菜がほんの少し本気になればその威力。それを直接嗅がされれば、気がおかしくなってしまう。
 毎日毎日、俺を虐める若菜。
 それを繰り返すうちに若菜の技量も高まり、さらにただ嗅がせるだけでは満足しなくなってくる。
 俺が「抵抗」することは若菜にとっては最高の追加要素だった。彼女のサディズムは中学生にしてほとんど完璧に開花していたのだ。
 嫌がる相手を苦しめる。
 そこに快感を見いだす若菜は、俺が抵抗すればするほど、その手を強めた。
 だからこそ俺は、若菜に対して抵抗することを放棄するようになった。
 抵抗するだけ無駄なのだ。彼女の加虐精神を逆撫でするだけなのだ。
 本気になって俺を虐めてくる若菜は、普段の温厚で優しくて可愛い若菜からは想像もできないくらい残酷なことをやってのけた。
 何回も何回も気絶した。何回も何回も吐いた。次の日になっても鼻の奥に卵臭さが残っていることもあった。あまりに気持ち悪くて夕食を食べられなくなったことだって一度や二度じゃない。
 だから、やめた。
 抵抗することは、やめた。
 俺はいつも、こう口にするようになっていた――

「――分かったよ、嗅ぐよ」

 その言葉を聞くと、若菜はいつも決まって、子供のように無垢な笑顔を見せるのだ。
 若菜からしても、無理矢理嗅がせるよりも俺が進んで嗅ぎに来る方がやりやすいのだろう。好きなだけ、好きなことが出来るのだから。
「エヘヘ、圭くんありがと♪」
 そう言うと彼女は、履いていたジャージのズボンをスルスルと脱ぎ始める。
「お、おいおい……」
「大丈夫だよ〜、中にブルマ履いてるから」
 中学生のうちは、女子もスカートの中にブルマを履くし、ジャージを着るときも中にブルマを着ているケースが多い。若菜もその一人だったというわけだ。
「私、実は学校でやってみたかったの。制服で嗅がせたことは何回かあったけど、体操着は初めてだよね。エヘ、こういうのってコスチュームも絶対重要だよね〜」
 そんなことを言われても、俺には何も分からない。
 これから若菜のおならを嗅がされる、という事実は揺るがないのだから。
「この跳び箱使おっか!」
 倉庫の隅に眠っていた、使われなくなった跳び箱。
 若菜はその一番上の段を外し、俺を手招きする。
「圭くんっ、この跳び箱の中に入って!」
 覚悟を、決めるしかないのか――
 一番上の段が空き、跳び箱の中には空洞が出来る。そこに入れと言っているのだ。そして彼女は、上からガスを注ぎ込むつもりだ……
 自分で嗅ぐとは言っても、恐怖に変わりはない。
 若菜の腹の調子によって、その日の虐めの程度は変わる。もちろん、若菜の機嫌によっても。
 だから俺は怯える。今日がどの程度なのか、分からない。神に祈る。どうか今日は少しで済みますように、と。
「………」
 無言のまま、俺は跳び箱の中に体を入れる。中は思ったよりも窮屈だ。体を縮めるようにして座る。膝を抱え込む、体育座り。そうしなければ俺の体は跳び箱の中に収まりきらない。
「んしょ」
 若菜の声が聞こえる。箱の中が暗くなる。……上に若菜がいるのだ。
「圭くん、上向いてっ」
 おそるおそる、見上げるとそこには……、
 ずどむっ。
 若菜の尻が、どっかりと鎮座していた。
 彼女は跳び箱の縁に足をかけるようにして座り、尻だけど箱の中に入れているようだった。中にいる俺からしてみれば、尻が落ちてくるような感覚。見上げれば、ブルマに包まれた若菜の尻がある。
 こうしてみると、彼女の尻は中学生にしては著しく発達していることが分かった。
 あまりの大きさに、ブルマの布地がとても少ないように見える。パツンッと張ったブルマ。それに包まれて、いまにも弾けそうな巨大な桃尻。若菜の体勢が体勢であるため、尻の割れ目もくっきりと見える。……あの割れ目から、極悪ガスが噴出するのだ。
「わ、若菜、あのさ、ここ学校だし、あんまり派手なのは……」
「エヘヘ、そのための跳び箱だよ〜」
 若菜の得意げな声だけが聞こえる。彼女の勝ち誇った表情も想像できる。
「こうやってやれば、音はあんまり外に漏れないでしょ? ついでに臭いも籠もって一石二鳥!ってことで、派手なおならブーブーやっちゃうから覚悟してね〜!」
「………」
 腹をくくるしかない。俺は無言の沈黙で返事をする。

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