大丈夫。大丈夫。
俺は自分自身にそう言い聞かせる。
いつものことなのだ。毎日のことなのだ。それを今日は、学校という少し特殊な環境で行うだけなのだ。何も心配することはない。少しの間だけ耐えれば終わる。俺と若菜は二人で何事もなかったかのように帰宅できる。そう信じた。いや、信じたかった。
見上げれば、尻。大きな。巨大な。
しかし、甘かった。
その日、俺はそれまでで最悪の地獄を味わうことになる。
俺は若菜の顔を思い出す。あどけなく、可愛らしい顔。あの幼さが残った笑顔とは懸け離れた、大きく大きく成長した桃尻。そのギャップが俺を苦しめる。その尻のサイズは標準的な大人と同等、いや、それ以上にも思える。頭上に尻が鎮座するというこの状況による錯覚だけではないはずだ。こんなに早く、尻だけが成長するなんて。俺はそう思った。……そのときはまだ知らなかったのだ、彼女の尻の成長がまだ過渡期であるということを、これから年齢を重ねるに従って、若菜のヒップがますます大きく、目を見張るほど巨大になるなんて。
「圭くん、心の準備はできた?」
頼む、頼むから、酷いのはやめてくれ。若菜の腹の調子が、昨日食べたものが、機嫌が、少しだけでもマシな方向であってくれ。俺は祈る。――その祈りは、若菜の天使的な声によってあまりにも残虐に打ち砕かれた。
「学校来るときも言ったけど、今朝起きたときに超臭いおならしちゃったんだ〜。昨日の夜にレバニラおなかいっぱい食べたせいかな? 今日のお昼も食堂でとんこつラーメン食べたし、おならの溜まり具合はバッチリだよっ。あ、それとぉ……、言いづらいんだけどね、最近ちょっとお腹張っちゃってて……、今日でお便秘9日目なんだよね〜、ごめんっ。私、お肉ばっかり大好きで野菜なんてほとんど食べないからな〜。てわけで、もしかするとこの世の終わりみたいなおなら出ちゃうかもしれないの、エヘ、許してね♪」
叩きのめされる。希望も、何もかも。
「こういうこと黙っておこうかとも思ったんだけど、でもやっぱりあらかじめ宣言しといた方が圭くんのショックも少ないでしょ?」
あたかも自分の言葉が俺への配慮であるかのように言う若菜。だが、それはショックを和らげる宣言でもなんでもない。若菜の宣言によって俺の恐怖は限界まで膨れあがり、さらに実際嗅がされるそのときになっても、その言葉の数々は俺の体感する臭いを増幅されることになる。そして若菜はそのことをよく分かっている上で、俺を苦しめようと、自分のおならがいかに凶悪かをニコニコしながら語るのだ。
「さてと。そろそろ始めるよ〜、いいかな?」
「……さっさと始めて、さっさと終わらせてくれ」
それが俺に言える、せめてもの抵抗の言葉。
「ん〜、じゃあさっさと始めるねっ。さっさと終わるかどうかは分かんないけど♪」
ぼぶうううぅうっぶぅううっっ!!!!!
若菜が言い終えるやいなや、跳び箱の中にずっしりとした重低音が響く。
そして瞬間的に、箱の中の狭い空間の湿度が上がった。気味の悪いじめじめした空気。
それに伴って臭いがやってくるのは、本当にあっという間の出来事だった。
「うッ、うがッ、うげえぇえぇええええッッ!!!!!」
その臭いは、当時の俺には、全く持って未知のレベルだった。
ガスは頭上から吹きかけられ、箱の中に蓄積する。跳び箱という空間の中の空気がたった一発で
ガラリと変わった。顔に直接噴射されたわけではないのに、鼻の周りから濃い腐卵臭が離れない。顔を振っても、手で仰いでも、何をしても。
俺その一発で悟ってしまった。若菜が言っていた「この世の終わりみたいなおなら」という言葉の意味を。彼女も分かっていたのだ、今日のガスのヤバさを。その一発は、俺が嗅いだことがあった臭いの中でも群を抜いて酷いものだった。
「周りに誰もいないからってあんまりおっきな声出しちゃうと、流石に外の人にバレちゃうかもしれないよ〜?」
若菜はそう言うとクスクスと笑う。
忘れてはいけない。ここは学校の中なのだ。臭いに耐えかねて絶叫したら、そばにいた教師に見つかってしまうかもしれない。それはまずい。状況的には若菜もまずいかもしれないが、しかし危うい立場に立たされるのは間違いなく俺の方だ。女子と一緒に夜の体育倉庫で怪しげなことをしている、となれば、疑われるのは間違いなく男子である俺なのだから。
「う、ぐ………」
俺は口をつむぐ。
「エヘ、分かってくれた? じゃあ静かに続きやろっか。私の方がいくらおっきなおならしても、圭くんは大声で騒いじゃダメだからね?」
ぶぶっぶうううぅうーーーぅううううっっ!!!!!
「んッ、んぐぅ――――ッッ!!!!」
俺は両手を使って口を鼻を押さえる。
これで声は漏れない。しかし、鼻の方を押さえた効果はまるでないようだった。ほんの少しでも隙間があれば、その臭いは容赦なく入り込んでくるのだ。
目から涙が噴き出すのが分かった。全くもって意識の外での落涙だった。ガスのニンニク成分、トウガラシ成分が目を刺激しているのか、それとも危機を感じて脳がショートしてしまったのか。
「ん〜、快腸快腸♪」
若菜はのんきにそんなことを言っている。
こんな、体の中で物が腐ったような臭いのおならをしてどこが快腸だというのか?9日間も便秘が続いてどこが快腸だというのか?
……いや違う。若菜にとっての「快腸」とは、激臭のおならを、好きなだけ出せる状態のこと。彼女の感覚は一般人とは懸け離れているのだ。
俺は耐えきれず、跳び箱の側面を内側からドンドンと叩く。今日のはまずい。臭すぎる。そんなSOSのサインだ。
しかしその行為は皮肉にも、若菜の加虐精神をますます刺激することになる。パニックになると忘れてしまうが、俺が抵抗すればするほど、若菜は俺を苦しめようとするのだ。
「も〜、圭くん、あんまり暴れないでねっ。五月蠅くすると、おならで黙らせちゃうぞ?」
「がッ、ぐぅ……ッ!!」
その言葉に、俺は手を止める。黙らせちゃう、という言葉の響きに本能的に不吉なものを感じたのだ。
「エヘヘ、静かになったね、偉い偉い! じゃあ、聞き分けのいい圭くんにご褒美ね♪」
ぼっふすうううぅぅぅうーーーーぅぅぅううっっ!!!!
「はがあぁぁああッッ!!!!ぐぜえぇええぇえッッ!!!!」
だが、若菜はもう止められない。
いくら若菜の言うことに忠実に従っても、結果は「おならを嗅がされる」の一択のみ。他に選択肢はない。この跳び箱の中に、自ら入った時点で。
俺は少しでも甘い考えでここに入り込んだ自分を呪った。ここは学校だから、若菜も少し加減をするだろう、などと思っていたのだ。それがまるで逆だった。彼女は学校で俺に屁責めをするという特異な状況に興奮し、いつにもない最悪のガスを噴出している。
「ん〜」
若菜の声がする。
上を見上げる。どうやら彼女は少し身をかがめているらしい。
「隙間からちょっと臭いが漏れちゃってるのかなぁ……、って、えぇっ!?なにこれっ!くっさぁっ!!」
どうやら跳び箱の繋ぎ目から内側に溜まったガスが少し漏れ出し、その臭いが若菜の鼻にも届いているらしい。自分のおならの臭いに驚いたような声をあげると、若菜は大笑いを始めた。
「エヘヘヘッ、すっごい臭いだぁ〜。ちょっとは加減してるつもりだったんだけど、コレ、相当臭いね!」
「ぐッ、だ、だから臭いって言ってるじゃ――」
「まだちょっぴりしか出してないのにこんなに臭いんじゃぁ、これからが大変だね圭くんっ」
まだちょっぴり。
俺は言葉を失った。
もう若菜は、自分の感覚を失っているのだろうか。
「わ、かな、頼むから、もうやめ――」
「ねぇ圭くん、ちょっとだけ立ち上がって、お尻にお顔くっつけてよ」
俺の懇願を遮ってまで――
若菜は残酷な命令を、俺に下す。
「ひ、ひ――ッ」
「そこからだと、頭の上に私のお尻見えるでしょ?立ち膝みたいな姿勢になって、お尻にお顔むぎゅって埋めてみて!そしたら思いっきりブーッてするから!」
考えても見ろ。
こうして逃げ場のない跳び箱の中でうずくまって耐え忍んでいられるのは、かろうじておならの直接噴射を防いでいるから。
それを、尻に顔をくっつけろ、というのか?
残酷だ。若菜の命令は残酷だ。いくら凄惨なことを口にしようとも、彼女は相変わらず童顔の可愛い笑顔を浮かべているのだろうか。それがまた、残酷さをよりいっそう際立たせる。
「む、無理、絶対無理……」
可能な限り抵抗はしない。命令には従う。若菜を相手にするときの鉄則。
それでもしかし、不可能なことはある。いつにもないガスの濃さ。その中で尻に顔をつけるのは、火の中に自ら飛び込むようなもの。
「え〜? お尻に顔つけるなんて、結構いっつもやってるじゃん!」
「き、今日のはヤバイって、い、いつもの臭いより絶対ヤバイ……」
「ん〜、今日の臭いが凄いのは認めるけど、大丈夫だよ〜。ほら、お顔くっつけて!は〜や〜く〜!」
「む、無理…無理だって……、今日は勘弁して……」
若菜相手にここまで下手に出るのは始めてかもしれない。しかしその日の若菜は、俺が自分の方から謙ることを辞さないほどに“ノっていた”。
「ふ〜ん、あくまで拒否しちゃうつもりなんだぁ……」
首を横に振り続ける俺に対して、急に若菜の声色が変わった。
さっきまでのような嬉々としたトーンではない。冷たい、蔑むような声色。
危険な傾向だ。これが若菜のサディストスイッチが入った合図であることを、俺は経験的に知っている。――これ以上の拒否はマズイ。
「ん〜、顔くっつけなければ助かると思ったら大間違いだからね? 私の方は超最悪ななが〜いすかしっ屁を出す準備だって出来てるんだから」
すかしっ屁、という単語が、何より俺の恐怖を煽る。若菜のそれは――特にサディズムに目覚めた若菜のすかしは、一人の男の気を狂わせるのには十分すぎる威力がある。
これ以上の拒否は――マズイ。
俺はもう一度、心の中でそうつぶやく。
「選ばせてあげるっ! おとなしくお尻にお顔埋めればちょっとは手加減してあげる。反抗するんなら、すかし卵地獄にご招待!」
「………わ、分かった」
「ん〜?」
「わ、かったよ、……顔、くっつけるから………」
承諾。
命令に従う。
残された道は、それしかない。
たかがおならなんだ。たかが、おなら……。
「エヘ♪ 最初からそう言えばいいのに♪」
若菜の声がもとに戻った。だが彼女はきっと許していないだろう。一度でも命令を拒否したことを。普段は対等な関係の幼馴染みでも、屁責めの最中に限っては、若菜の立場が絶対。それが俺と若菜の間で昔から取り交わされてきた暗黙の了解。
「そうと決まったら、早くしてっ!エヘヘ、私のブルマのお尻にお顔密着させられるなんて幸せだね〜」
「うぐ……」
俺は跳び箱の中でゆっくり跪くような姿勢を取り、顔を上にクイッと向ける。そこにはちょうど準備されたように、若菜の桃尻が存在していた。むにっ。俺の顔は、ブルマに包まれた柔らかな肉の塊に埋まる。パツンッと張ったブルマの生地は、想像していたよりもたやすく、俺の顔を受け入れた。ブルマが包んでいるのは、もりっとした若菜の柔尻なのだから当然かもしれないが。
呼吸をしないように注意しても、尻にこびりついた臭いは鼻を襲ってくる。そこにさらに追撃があるかと思うと、背筋が凍る。体がプルプルと震える。
「準備オッケーだねっ。エヘ、そのままずっとくっつけてないとダメね〜!ちょっとでもお顔離したら、すかし卵地獄行きだから覚悟しといて♪」
「むッ、むがッ!?」
そんな、話が違う。
そう主張しようとした俺の声は、若菜の尻肉が嘲笑うかのように吸収してしまう。
「大丈夫大丈夫っ!そのままお顔くっつけてるだけでいいんだから! それじゃぁ、いっくよ〜♪」
ばぶっふぅぅうぉおおぉぉおおっっ!!!!!
何かの爆発のような轟音。
それが目と鼻の先から聞こえた。
同時に、まさかこれほどまでに、と疑ってしまうほど大量の生暖かい空気が顔面を這うようにして広がっていくのが、はっきりと感じ取れた。
「む、むぐぐうぅうぉぉおっぉぉおッッ!!!!!」
それはいつにもなく巨大な放屁。
パツンパツンに張ったブルマの尻が、放屁の勢いでプルプルと触れたのが分かるぐらい。
大量のガスは、尻に密着した俺の顔を舐め、鼻穴に入り込む。今度はさっきまでとは違う。尻と鼻が接している。直接の大暴発だ。
「おっきいの出た〜!スッキリ!」
一方の若菜は、本心から気持ちよさそうな声を上げる。
「やっぱりおならってのは思いっきり出してこそだよね〜。これが一番のストレス解消!」
「むぐううぅうッ!!!むがッむがッ!!!!」
「あ、おっきいだけじゃなくて相当臭かったみたいだね? エヘヘ、ごめんごめ〜ん」
若菜の場合はその格が違う。平気な顔をして、一般的な「大きなおなら」の3倍も4倍もの量を放出する。しかもそれだけ出せば腸に溜まったガスは空になるものだが、若菜にとってみれば全体の1割も出せていないという感覚らしい。彼女の腹に溜まったガスの全量を、俺は知らない。普段どのくらい加減しているのかも分からない。若菜が本気を出したらどうなってしまうのか、考えるだけでも恐ろしい。
「スッキリ」と若菜は言った。確かに溜まっていた屁を一気に出すのは気持ちがいいものだ。しかし今、彼女の快楽と引き替えに、俺は拷問を味わっている。しかもそれから逃れようと顔を離せば、そのまま跳び箱の中に閉じ込められ、『すかし卵地獄』が待っているというのだ。
顔を密着させている限りは手加減してくれている。……手加減?これで? だったら、もしも手加減なしの『すかし卵地獄』になったら、一体どうなってしまうのだ……?
「あ、もう一発っ」
ぶぶっふぉおぉおおぉーーーぉぉおおっっ!!!!!
「あ、あぐううぅうぅうぅッッ!!!?」
若菜の「かる〜い」言葉の直後に放たれた一発。
驚愕しないわけにはいかなかった。
爆弾でも破裂したのかというくらい大きかった先ほどの一発うら凌ぐ巨大な暴発。
大きな一発ということは、出るガスの量も多い。それに伴って、臭いも強まる。若菜の場合、量が多いからと言って臭いが薄まることはけしてない。むしろ大量のガスを出すと濃度も濃くなっているように思える。
「エヘ、もっとおっきいの出ちゃった!さいこぉ〜♪」
確かに若菜にしてみれば最高の気分だろう。こんなに大きなおならを、少しの遠慮も我慢もすることなく出したいだけ出しているのだから。それも、俺の顔面に。
だが、俺は耐えられない。
これが、手加減なのか?
若菜は調子に乗って、手加減すると言ったことを忘れているのではないか?
だとしたら、俺が必死で尻から顔を離さないように努力しているのは、まるで無駄なのではないか?
そんな考えが、俺の脳裏に浮かぶ。それは俺の忍耐力を著しく鈍らせる。さらに追い打ちをかけるように、若菜は俺の“我慢”の精神を打ち崩しにかかる。
「こ〜んなすっごいおっきなおなら連発してるから、もう残りが尽きるんじゃないかと思ってるでしょ? エヘヘ、安心してっ!まだまだ出るから♪」
そんな馬鹿な……、若菜の腹は、いったいどんな構造になっているというのだ。
「ん〜、言ったそばからまた出るよ〜」
もう嫌だ。やめてくれ。
心の叫び。それは声にもなるが、あえなく尻肉に吸収されて消える。
尻に顔を埋めていなければいけない。その状態で耐えなければならない。
俺の忍耐の精神は、もう一本の糸でつながれているも同然だった。そして若菜は情け容赦なく、細い糸を引き千切る。獅子は蟻一匹を倒すのにも全力を尽くすように。
ぶむおおおぉぉおおぉーーーぉぉおおっっ!!!!!
「へぎいいいいぃいいぃいいいいぃッッ!!!!!」
ついに限界が訪れた。
もう、それ以上は、無理だった。
男子の中学生と言えば、人一番負けん気が強くなる時期。そんな時期であっても、俺は降参し、若菜に完敗したことを認めないわけにはいかなかった。
容赦なく濃度を増す爆音っ屁。それを前にした俺は、何の力もない微生物同然だったのだ。その臭いに耐えきることは到底できない。ましてや、その発射口である尻に顔を埋めたまま耐え忍ぶことなど論外だった。
しかし、若菜はそれを許さない。
かつてないほどの大爆音を轟かせ、さぞ爽快感に浸っていたであろう彼女は、俺が尻から顔を離し、跳び箱の中で転げ回っていることに気づくと、少し呆れたような、怒ったような、そんな口調になる。
「あ〜!顔離しちゃった!」
「ご、ごめんッ、で、でも、これ、あ、あああ、無理………」
「そんなに苦しかった?」
「く、苦しい…ゲホゲホッ!!……く、臭い……死ぬ………」
「もぉ〜、おならで死ぬわけないじゃん、大げさだなぁ圭くん」
けして大げさではない。
この狭い跳び箱の中という空間。立ちこめる腐卵臭。顔面に直接噴射される大量のメタンガス。どれを取っても、俺に死を感じさせるものばかりだ。
もう駄目だ。限界だ。
俺の頭を、その言葉だけが駆け巡る。