Tsugumi.

 3日間に渡って開催されていた、各国の経済界トップメンバーが集う国際シンポジウムが閉幕した。
 今年の開催地は日本。となると、世界最大の企業規模を誇る『カシワ』がホストカンパニーになるのは必然と言える。『カシワ』社長として主催者代表を務めている僕は、分刻みのスケジュールで、慌ただしい3日間を過ごした。そしてそれをこなせたのは、もちろん、秘書の(つぐ)()さんによる完璧なサポートあってこそ、だった。

 シンポジウム閉幕後には、立食形式での晩餐会が催される。
 各国トップ企業のCEOが直接対話をする場とあって、ここで大型の商談が決まることも少なくない。基本的に、要人とそのパートナーだけが出席する懇親パーティーであるため、昨年までは僕は一人で参加していたのだが、今回からは、“妻”としての嗣実さんと参加することになる。
 パーティー用のタキシードに着替え、セレモニースピーチの原稿を読みながら控室で待っていたところで、扉が開き、
「社長、お待たせしました」
と、彼女が現れる。
 その姿を見た瞬間、僕の手から、スピーチ原稿がはらりと滑り落ちた。——正直に言おう。パーティードレスに身を包み、普段と違うメイクをした嗣実さんの美しさに、目が眩んだのだ。
「どうしましたか?」
 いつも通りの無表情で尋ねる彼女を前で、僕は慌てて原稿を拾い上げる。
「あ、いや……、……素敵なドレスだな、と思って」
「恐縮です」
 誰もが振り返るような大和撫子。嗣実さんは少しも表情を変えることなくビジネスライクにそう答えると、ポーチからスマートフォンを取り出して、これから始まるパーティーにおける業務事項を淡々と話し始めた。
「晩餐会での戦略ですが、まずR社との接点を持つことを最優先事項とします。その後は——」

 パーティーも無事にお開きとなり、来賓も全て見送り終えて、僕と嗣実さんは、車に乗り込んで、ようやく一息ついた。
「社長、3日間に渡る主催のお務め、お疲れ様でした」
「ふぅ、これで全部終わったね。嗣実さんにも、今回も最後まで色々苦労かけてしまった。ありがとう」
「仕事ですから。晩餐会ではいくつか重要な商談を取り付けられましたし、実りあるものでした」
 そう答え、生真面目なビジネスモードを続けている彼女に、僕は軽く微笑みかける。
「でも、相当疲れたでしょ」
「いえ。……と言いたいところですが、正直なところ、パーティーは少々疲れました。あのような社交的な場は、元来不得手ですので」
 それに応じて、嗣実さんの方も、表情は崩さないまでも、小さく肩をすくめて見せる。社長秘書として、ではなく、社長夫人として、よく立ち回っていたと思うが、その振る舞いをするための気苦労も多かったことだろう。
 秘書として働いている最中に、彼女がこうして本音を見せることはあり得ない。ほんの少しでも「素」が垣間見えるようになったのは、彼女がプライベートモードに切り替わった印だ。
 と、そこで、
「ところで、あなた」
と、嗣実さんが運転席から僕の方を向く。(「あなた」と呼ばれるということも、彼女がもうビジネスモードではない証拠だ)
「ん?何?」
「もう満腹でしょうか」
 そう尋ねられ、僕は小さく笑いながら首を横に振る。
「満腹、と言うほどではないかな。パーティーでも、そんなに食事はしなかったし」
「大勢のパーティーで、いささか気持ちがくたびれました。帰る前に、あなたと2人で軽く飲み直したいと思いまして」
「うん、もちろんいいよ」
 社長と秘書、としてだけの付き合いだった頃は、彼女の方からこんな誘いがあるなんて、考えられなかった。そう思いながら、僕はすぐに頷く。それを受けた彼女は、相変わらずクールな表情のまま、
「ありがとうございます。そう言ってくださると思って、既に店は抑えてあります」
と当然のように言うと(さすがの手際の良さである)、音声入力を使って車の自動運転機能に指示を出す。
「目的地変更。叙々亭赤坂店に向かってください」
 ——それは、著名人でもプライバシーを確保してくれることで名の通った、高級焼肉店。
 僕の背筋に、つぅーっ、と冷たい汗が流れる。
「……“軽く”飲み直す、んだよね……?」
「はい、“軽く”」
 そんな会話の中、車はフルオートで動き出し、彼女の指示通り、焼肉店に向かって走り出した。

 3時間後、焼肉店を出た僕たちは、再び車に乗り込んだ。嗣実さんがアルコールを飲んだので、今度は僕が運転席、彼女が助手席である。
 大方の予想通り、店の個室で、僕は全く“軽く”ではない彼女の食べっぷりに圧倒されることになった.
 けして食い荒らすようながっつき方をするわけではない。品よく、美しい箸使いで手を動かしていく。——そして10分も経つと、こんな量を食べ切れるのだろうか、と思っていた量の肉が大皿の上から綺麗に消えており、嗣実さんは次の注文を選んでいる。そういう種類の大食いである。
 これも結婚してから分かったことだが、どうやら彼女は、溜まったストレスを食べることで発散するタイプのようだ。2時間半の滞在時間で、伝票が信じられない長さになるほどの焼肉を食べ尽くした彼女は、ナプキンで口元を拭いながら、
「ご馳走様でした」
と丁寧に手を合わせたのだった。

 自動運転の車が走り出す。走行が安定モードに入り、ハンドルを握る必要がなくなったところで、僕は助手席の方を向き、
「満腹?」
と尋ねる。パーティードレス姿の嗣実さんは(晩餐会のまま着替えずに焼肉屋へ向かったのだ)、涼しい表情のまま、
「八分目ですね。ですが、満足しました」
と小さく頷いた。
 と、その直後、

 きゅるっ、ぐぎゅるるるうぅ〜〜〜ぅうッッ!!

ひ——ッ!?
 思わず、声が出た。
 車内のエンジン音に乗せて響き渡ったのは、彼女のお腹の唸り声だった。
「失礼しました」
と、事もなげに詫びる嗣実さん。彼女の『異常放屁体質』と健啖ぶりは、常人を遥かに上回る胃腸の性能に由来しているらしい。彼女の体内では、先ほど大量に食べた肉、肉、肉が凄まじいスピードで消化され、と同時に、腸内ではガスが生成されているに違いない……
 そんな僕の思考を読んだかのように、嗣実さんは、
「あなたであれば既に勘づいていると思いますが、今、食事で胃が満腹というよりも、むしろ、ガスで下腹がパンパンです」
と真剣な表情で言い、ドレスの上からお腹を手で撫でる。先ほどの大食いで胃が大きく膨らんでいるのは当然として、それ以上に、腰回りがタイトなドレス越しにも、彼女の下腹のあたりがぱつんぱつんに張っているのが見て取れる。
「明日は久しぶりの休日ですね」
「う、うん……」
 嗣実さんは、僕の方をじっと見つめて、続ける。
「ご認識の通り、ここ5日ほど、多忙のために、あなたへおならを嗅がせる時間が取れませんでした」
「う………」
「したがって、帰宅次第、明朝までかけておならを吸引して頂く予定です」
ひ、ひいぃい………ッッ
 淡々と、事務連絡のように告げられた宣言に、僕としては、ただ震え上がることしかできない。
 彼女の辞書に、誇張や過言という単語はない。彼女は「明朝までかけて」と言えば、それは文字通り、夜を徹しておなら責めが行われることを意味する。そして僕に拒否権はない。
 意識してか無意識か、彼女は助手席から僕の顔をじぃっと見つめたまま、片手でドレス越しの下腹を静かにさすっている。
「あのぉ……、お願いなのだけど……」
と及び腰で申し出る僕に、嗣実さんは凛とした視線を向けたまま、
「なんでしょうか」
と応じる。
「えーと……、その、マンションに着くまで、あと30分以上はかかるわけだし……、だから、お願いだから、車の中でだけは、その、我慢しておいてもらえると——」
 その僕からのその婉曲的な言い回しを、彼女は
「すみません、あなた、」
と、ぴしゃりと遮る。そして間を置かず、こう続けた。
「既にスカしてしまいました」

えッ、な———ってゔぅうゔううううッッ!!!?くッさぁぁあああッッ!!!!」

 ——今度は、会話中、エンジン音に隠されて、僕は全く気づけなかったのだ。彼女が眉ひとつ動かさず、姿勢も全く変えず、僕のことを無表情で見つめたまま平然と放った、

ッッッすうううぅぅうーーーぅうぅーーーぅううぅうぅうぅうううぅうう………ッッ

という、完全無音すかしっ屁に。
 音は完全にサイレントでも、その臭いは、この世に存在するあらゆる消臭剤を注ぎ込んだとしても、なかったことにすることは不可能だろう。けして広いとは言えない車内の空気を、一瞬で激変させた腐卵大根臭。付き合いの長い僕にはすぐに分かった。今の嗣実さんの腸内環境が、“最悪”である、と……

ごほッッ!!!あ゙ッ、ぐ、ぐじゃずぎッ、ゔうぅゔ………ッッ!!!

 苦悶する僕の前で、身じろぎすらしない嗣実さん。今の車内でこの冷静さを保つというのは、彼女にしかできまい。
「失礼、我慢できなかったものですから」
 けろりと言う彼女に、僕は涙目で咽せながら、
ゴホッ、が、我慢できなかったって、嗣実さんなら余裕でコントロールできるでしょ……ッ」
と、せめてもの恨み節を呟く。
 それに対して彼女は、相変わらず機械的な口調でこう答えた。
「はい、ガス自体を我慢することは容易に出来ます。しかし、あなたにおならを嗅がせられるという、(はや)る気持ちを抑えることができませんでした」
「………そ、そう…………」
 ここまで包み隠さず率直に告げられてしまうと、もう僕に返す言葉はなかった。
 青い顔をしたまま黙り込んだ僕に、彼女は、ふぅ、と小さく息をつき、言う。
「さて、一発スカした以上、もう何発出しても変わりませんよね」
え゙ッッ!!?
「では」
い゙やッッ、ちょッ、ちょっと待

ぶずゔうぅぅうゔううぅーーーーぅううぅううッッ!!!!!
ぶッッ!!ぶりッッ!!ぼぶゔぉおぉーーーぉおおッッ!!!!
ぶゔッッすうううぅうーーーぅうーーーーぅううぅううううぅうううッッ!!!!!

や゙ッッ待ッでッッ、ぐぅッッざいひぃいいッでええぇええッッ!!!?!!

 今度は予告をした上で、シートの上でくいッと片尻を持ち上げた体勢から、エンジン音をかき消して轟いたのは、大爆音の連発。そのガス量が解き放たれて、密室状態の車内に広がれば——地獄のガス室が出来上がる。
 彼女の第一印象からは想像もできない音と共に、あっさりとした淡白なイメージとはかけ離れた濃密腐卵大根ガスを放っておきながら、照れることも微笑むこともない。嗣実さんは静かにドレスのスカート部分を指で摘み、ぱたぱたと動かして、そこに残留したガスを追い出す。
あ゙がッッ、ちょッ、こ、これッ、キツいって……ッ、ま、窓、窓オープン………ッッ
 苦し紛れに、僕は車に音声コマンドを入力しようとする。が、車から返されたのは、ブブー、というブザー音だけ。それを見て、嗣実さんは
「セキュリティのため、窓はロックしています。私でなければ解除できません」
と冷静に説明する。と同時に——

ぶぶりッッぶむぅぅおぉーーーーぉおおぉおおーーーぉおぉおおおぉおッッ!!!!!

ゔぅぅッぷ……!!つッ嗣実さんッ、ほ、ホントにッ、これホントに……ッッ!!!

「本当に、なんでしょうか?」

ぶゔりいい゙ぃいいッッ!!!!

ひぎッッ、ほッホントにッッ!!あ゙ッ、げふッ!!
今日のガス、こッ、濃すぎてッ、車内に籠もるからぁあッッ!!!

「そうですか」

ぶむッッしゅううぅうぅーーーーぅううーーーぅうぅぅうううぅうッッ!!!!!

んぎゃッッ!!!くッ、臭すぎるってぇええぇえッッ!!!!

 僕の必死の訴えに、嗣実さんが聞く耳を持つ様子はない。
 そして彼女は、モニターの表示を一瞥して、
「到着予定時刻は、あと28分後ですので」
と、僕にとっては認めたくない事実を、淡々と述べるのだった。

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